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東京地方裁判所 平成3年(ワ)15964号 判決

原告 文泰福 ほか六名

被告 国

代理人 稲葉一人 井上邦夫 倉部誠 安田錦治郎 高橋宏之 浜秀樹 比留間治夫 小田切敏夫 ほか一名

主文

一  原告らの請求の趣旨1(一)及び同2(一)ないし(三)の請求をいずれも棄却する。

二  原告らの請求の趣旨1(二)の請求に係る訴えをいずれも却下する。

三  訴訟費用は原告らの負担とする。

事実

第一当事者の求めた裁判

一  請求の趣旨

1(一)(第一次的請求)

被告は、原告文泰福に対して金一一九二万円、同李鶴来に対して金二〇一三万円、同尹東鉉に対して金一七七八万円、同金完根に対して金一一五四万円、同文済行に対して金九九九万円、同朴允商に対して金一四四八万五〇〇〇円及び同卞光洙に対して金五〇〇〇万円をそれぞれ支払え。

(二)(第二次的請求)

原告卞光洙の亡父卞鐘尹が、別紙四刑死者目録記載の執行日において銃殺刑を執行されたことにより被った損失並びに原告卞光洙を除くその余の原告らが別紙五在監者目録記載の各逮捕日において逮捕され、各有罪判決を受け、各拘禁期間中拘束されたことにより被った各損失について、被告が補償立法を制定しないことは違法であることを確認する。

2(一)  被告は、原告文泰福及び同李鶴来に対し、同各原告宛の別紙一記載のとおりの謝罪状をそれぞれ交付せよ。

(二)  被告は、原告尹東鉉、同金完根、同文済行及び同朴允商に対し、同各原告宛の別紙二記載の謝罪状をそれぞれ交付せよ。

(三)  被告は原告卞光洙に対し、同原告宛の別紙三記載のとおりの謝罪状を交付せよ。

3  訴訟費用は被告の負担とする。

4  第1項(一)につき仮執行宣言

二  請求の趣旨に対する答弁

(本案の答弁)

1 原告らの請求をいずれも棄却する。

2 訴訟費用は原告らの負担とする。

3 請求の趣旨1(一)につき、担保を条件とする仮執行免脱の宣言

(請求の趣旨1(二)に対する本案前の答弁)

1 主文第二項と同旨

2 前項の訴えに係る訴訟費用は原告らの負担とする。

第二当事者の主張

一  原告らの主張

別紙「原告らの主張」〈略〉に記載のとおりである。

二  被告の主張

1  原告らの主張に対する被告の認否及び主張

(一) 原告ら主張の事実のうち、次の事実は認める。

(1) 原告文泰福が韓国全羅南道求禮郡で出生したこと、昭和一七年六月陸軍軍属(傭人)として釜山臨時教育隊に採用されたこと、同年九月二五日タイ俘虜収容所に採用されたこと、昭和二一年八月二三日、イギリス人俘虜の虐待を理由に、絞首刑の判決を宣告されたこと、同原告の刑が後に刑期一〇年に減刑され、同原告が日本に送還されて巣鴨プリズン(サン・フランシスコ平和条約発効後は巣鴨刑務所。以下同じ。)で服役したこと及び昭和二七年四月八日に仮釈放により出所したこと、

原告李鶴来が韓国全羅南道宝城郡兼白面沙谷里で出生し、同地に本籍があること、昭和一七年六月釜山臨時教育隊に採用されたこと、同年にタイ俘虜収容所に陸軍軍属(傭人)として採用されたこと、昭和二二年三月二〇日、シンガポールにおけるオーストラリア軍事法廷において絞首刑の判決を宣告されたこと、同原告の刑が後に刑期二〇年に減刑されたこと、同原告が昭和二六年八月二七日から巣鴨プリズンで服役したこと及び昭和三一年一〇月六日仮釈放により出所したこと、

原告尹東鉉が大正一一年一一月五日、韓国全羅南道康津郡大口面水洞里で出生したこと、昭和一七年六月釜山臨時教育隊に採用されたこと、同年九月に陸軍軍属(雇員)としてマレー俘虜収容所に採用されたこと、昭和二二年一一月一〇日、メダンにおけるオランダ軍事法廷において、俘虜虐待との理由で刑期二〇年の判決を宣告されたこと(なお、同原告の刑は、後に刑期一九年一月に減刑された。)、同原告が昭和二五年一月二三日から巣鴨プリズンで服役したこと及び昭和三一年一月六日仮釈放により出所したこと、

原告金完根が大正一一年六月二三日、韓国全羅北道完州郡雨田面太平里四二六で出生し、現全州市三川洞に本籍があること、昭和一七年八月、陸軍軍属(傭人)としてジャワ俘虜収容所に採用されたこと、シンガポールにおけるイギリス軍事法廷において刑期一〇年の判決を宣告されたこと、昭和二六年八月二七日から巣鴨プリズンで服役したこと及び昭和二七年三月六日仮釈放により出所したこと、

原告文済行が大正一一年四月一一日、韓国全羅南道和順郡東面舞浦里で出生し、同地に本籍があること、昭和一七年八月陸軍軍属(傭人)としてジャワ俘虜収容所に採用されたこと、バタビア(現在のジャカルタ)におけるオランダ軍事法廷において刑期一〇年の判決を宣告されたこと、巣鴨プリズンに移送されて同所で服役したこと及び昭和二六年八月八日仮釈放により出所したこと、

原告朴允商が大正三年一月一五日、韓国忠清北道鎮川郡栢谷面沙松里で出生し、同地に本籍があること、昭和一七年八月陸軍軍属(傭人)としてジャワ俘虜収容所に採用されたこと、昭和二三年二月二五日、バタビアにおけるオランダ軍事法廷において刑期一五年の判決を宣告されたこと(なお、同原告の刑は、後の刑期一四年一月に減刑されている。)、同原告が昭和二五年一月二三日から巣鴨プリズンで服役したこと及び昭和二九年三月一八日に仮釈放により出所したこと、

亡卞鐘尹が大正九年四月二六日(戸籍上は六月一一日)、韓国忠清北道清州郡(現清原郡)北一面飛上里で出生したこと、昭和一七年八月に陸軍軍属(傭人)としてジャワ俘虜収容所に採用されたこと、バタビアにおけるオランダ軍事法廷において死刑の判決を宣告され、刑を執行されたこと、

(2) 一八八二(明治一五)年一月一四日の明治天皇の軍人勅諭、日清・日露両戦争の事実、一九〇四(明治三七)年の第一次日韓協約、一九〇五(明治三八)年の第二次日韓協約及び一九〇七(明治四〇)年の第三次日韓協約の各調印、一九一〇(明治四三)年の日韓併合、一九三一(昭和六)年にいわゆる満州事変が起こり、一九三七(昭和一二)年にいわゆる日華事変が、一九四一(昭和一六)年に太平洋戦争がそれぞれ勃発したことと終戦までの経過、韓国人の日本への渡航が一九三九(昭和一四)年の「募集」に始まり、一九四二(昭和一七)年以降の「官斡旋」、一九四四(昭和一九)年以降の「徴用」によって行われたこと、旧日本陸軍の作戦計画及び行動、日本が一九〇七(明治四〇)年にハーグ条約に調印し、一九一一(明治四四)年にこれを批准したこと、一九二九(昭和四)年にジュネーブ条約が成立し、日本もこれに調印したが批准を見送ったこと、昭和一六年一月八日に当時の陸軍大臣東条英機が上奏した戦陣訓の「名ヲ惜シム」の項の内容及び連合国が日本に対して俘虜の処遇につき抗議を行ったことがあること、

(3) 日本国がポツダム宣言を受諾したこと及びその内容、BC級戦争裁判の概要、サン・フランシスコ平和条約の署名及び発効、同条約第一一条の内容、同条約の発効に伴い巣鴨プリズンが日本政府の管理に移されて巣鴨刑務所となり、「平和条約第一一条による刑の執行及び赦免等に関する法律」(法律第一〇三号)が制定されたこと、韓国・朝鮮人BC級戦犯者が、判決後現地において服役したこと、その後巣鴨プリズンに移監され、右平和条約発効により日本国籍を喪失したが、刑の執行は継続され、昭和二七年四月からは、日本政府管理の巣鴨刑務所で拘禁されたこと、請求者らが人身保護請求の裁判を提起し、最高裁判所が請求棄却の判決を言い渡したこと、右判決要旨、同進会の設立及び同会の目的、同進会が、昭和三二年八月一四日より、韓国出身戦犯の刑死者遺族に対し刑死者一人当たり金五〇〇万円、服役戦犯者に対し逮捕日から出所日まで拘禁日数一日当たり金五〇〇円の割合による金額の支給の要請を開始し、内閣交代の都度同様の内容の要請を行っていること、日本政府が「巣鴨刑務所第三国人の慰藉について、37・10・11内閣審議室」と題する書面により、同進会の要求に係る国家補償要求について、「補償要求に応ずべき義務はない」旨の回答を行ったこと、佐藤栄作内閣が、昭和四〇年五月二五日、右補償問題は日韓会談で一括解決した旨言明したこと、同年六月二二日に日韓協定が調印されたこと、同進会が昭和五二年に要求金額を増額したこと及び日本政府が同進会からの国家補償要請に応じていないこと。

(二) その余の各事実は不知ないし否認し、主張にわたる部分は争う。

(三) 条理はその内容の抽象性、多義性、相対性のため、裁判規範としては限界があって、法や契約の解釈の基準となり、あるいは、これによって実定法の不完全な部分が補充されることがあっても、条理という解釈原理そのものに実体法規性を認め、それ自体を根拠として何らかの具体的請求権を基礎づけることはできない。

原告らは、条理に基づく国家補償請求権の根拠として、特殊な国家補償制度(予防接種法、刑事補償法)、わが国における戦争被害者に対する補償立法(戦傷病者戦没者遺族等援護法、原子爆弾被爆者の医療等に関する法律等)及び諸外国における戦争被害者に対する補償立法の存在を挙げる。しかし、これらの法律を制定するに当たり「条理」が考慮されることがあるとしても、そうであるからといって、条理を直接の根拠として具体的請求権が生じるということにはならない。

原告らは、明治憲法及び日本国憲法の伝統的な損失補償制度の根底にある正義公平の原理、すなわち条理に基づき正当な補償がされるべきである旨主張する。しかし、そもそも、明治憲法下においては、権力的作用に基づく違法行為による国の賠償責任すら否定されており、国の適法行為による財産権の規制に対する損失補償も、明文の規定のある場合にはじめて認められる制度であると解されていたのである。また、日本国憲法においても、直接憲法二九条三項に基づく損失補償の請求を認めるのは困難である。しかも、原告らの主張する損失は、当時日本軍属であったことに起因して被った損失であることが明らかであるが、これは、国民が等しく受忍しなければならない戦争犠牲ないし戦争損害の一種であり、これに対する補償は、現行憲法下においては全く予定されていない(最高裁平成四年四月二八日第三小法廷判決・判例時報一四二二号九一頁、東京高裁平成五年三月五日判決・判例時報一四六六号四〇頁)。したがって、原告ら主張の戦争損害について、戦争遂行主体であった当該国家が自らの責任により補償すべきであるとする条理は存在しないといわざるを得ない。

(五) 原告卞光洙を除くその余の原告ら及び亡卞鐘尹(以下、「戦犯者原告ら」という。)の動員は、民法上の雇用契約に基づくものではなく、国家総動員法四条、国民徴用令五条に基づく徴用であり、公法上の法律関係に基づくものである。

仮に、戦犯者原告らの動員が民法上の雇用契約又はそれに類似した契約であったとしても、原告ら主張のような契約上の義務を定める当事者間の明示的な合意はないし、原告ら主張のような義務違反があったとしても、連合国による戦争裁判は、日本国の主権下でなされたものではないから、右義務違反と右戦争裁判による損害との間には、因果関係も存しない。

また、第二次世界大戦終了以前においては、戦争法規違反行為に対する処罰は、当該国内法により各交戦国が戦時中に限って処罰するとの実務が支配的であり、国際条約中に違反行為の犯罪性を定めたり、刑罰規定をおき、その処罰のための国際裁判所を設置するという発想は一般にはなく、敵対行為終了後の国際裁判による戦争罪人の現実の処罰は、第二次大戦を契機に実現を見たものである。戦犯者原告らが受けたような連合国による戦争裁判は、第二次世界大戦後において初めて作り上げられた、新しい戦争犯罪の概念と敵国の個人を国際裁判所で処罰する制度に基づくもので、そのような事態を戦時中に客観的に予見することはできなかった。したがって、仮に、前記のような契約上の義務及びその違反を措定しうるとしても、右義務違反と右戦争裁判による損害との間に相当因果関係は存しない。なお、このように連合国による戦争裁判に用いられた戦争犯罪の概念と、これを実現する国際裁判所の制度が第二次世界大戦後に初めて創設されたことに照らすと、当時の国際法が俘虜の扱いについて規定していたからといって、戦争裁判についても予見可能であったということはできない。

(六) 原告らの不作為の名誉毀損に基づく謝罪状交付請求は、民法七二三条に基づくものである以上、被告が違法に原告らの名誉を毀損したことがその前提となるが、被告の行為によって原告らの名誉が毀損されたなどとは到底いえない。仮に、被告に原告らの主張する国家補償又は契約不履行の損害賠償義務を履行すべき法的責任があるとしても、かかる義務の不履行が、別途に不法行為を構成するということは考えられない。

2  原告らの第二次的請求に対する主張

原告らの請求の趣旨1(二)(第二次的請求)に係る部分の訴え(以下「第二次的請求の訴え」という。)は、民事訴訟法上の請求であるのか、あるいは行政事件訴訟法(以下「行訴法」という。)上の請求であるのかは必ずしも明らかではないが、そのいずれであるにせよ、次に述べるとおり、右訴えは不適法であり、却下を免れない。

(一) 原告らが、第二次的請求の訴えを民事訴訟として提起しているとすれば、これは、確認訴訟の対象となり得ない事項の確認を求めるものであり、不適法である。

(1) 民事訴訟は、私法上の具体的紛争(民事紛争)の解決を目的とするものであり、確認訴訟は、当事者間に争いのある事項につき裁判所が公権的にその存否を判断することによって紛争の解決を図るものであるから、その対象となるのは、私法上の具体的権利又は法律関係の存否に限られる。ところが、原告らは、被告が立法という公法上の行為をしないことの違法確認を求めており、民事訴訟として右公法上の行為を対象とすること自体問題である。しかも、被告が補償立法を制定しない不作為が違法であることが判決主文において確認されたとしても、当該判決は原告らの私法上の権利・義務に何らの影響を及ぼすものではなく、何ら具体的な法的紛争の解決に役立つものではない。

(2) 原告らは、被告が本件補償立法を行わない不作為が違法であることを宣言する判決を単に一つの契機として、韓国・朝鮮人BC級戦犯者に対する補償問題につき、他の政治的手段により解決することを企図していることがその主張自体から明らかであり、かかる第二次的請求が、私法上の具体的な権利・義務関係の存否を確定することを目的とする民事訴訟になじまないことは明らかである。

(二) 原告らが第二次的請求の訴えを行訴法上の訴えとして提起しているとすれば、これは、同法上許容されないことの明らかな義務確認訴訟であり、不適法である。

(1) 国会における立法の不作為を違法というためには、国会に当該立法をなすべき作為義務が存することを当然の前提とすることになるから、原告らの第二次的請求は、その実質において国会における立法の作為義務違反の確認を求めるものというべきであり、行訴法に規定された抗告訴訟の類型には該当しないから、いわゆる無名抗告訴訟の一類型である作為義務確認訴訟と解するほかない。

ところで、作為義務確認訴訟は、義務づけ訴訟と同様に、少なくとも〈1〉行政庁ないし立法府において一定内容の作為をすべきことが法律上二義を許さないほどに特定していて、行政庁ないし立法府の第一次的判断権を重視する必要がない程度に明白であること、〈2〉事前の司法審査によらなければ回復し難い損害を生じるという緊急の必要がある場合であること、〈3〉他に適切な救済方法がないこと等の各要件が満たされている場合に限って許されると解すべきである。

これを本件についてみると、第二次的請求は、原告らの主張自体から明らかであるように、まず、作為義務の名宛人について既に特定を欠いている上、作為義務の内容さえも全く特定されていない。本件において原告らが主張する損失は、国民が等しく受忍すべき戦争犠牲ないし戦争損害の一種であって、これに対する補償は、大日本帝国憲法の下における損失補償制度はもちろん、日本国憲法二九条三項も全く予想していない。したがって、日本国政府が右戦争犠牲ないし戦争損害について補償するか否か、あるいはこれらの犠牲・損害のうち、いかなる範囲の人々のいかなる範囲の犠牲・損害にいかなる内容・程度の補償を与えるかは、ひとえに立法政策の問題にゆだねられているというべきである。日本政府は、かかる補償をするとすれば、右戦争犠牲ないし戦争損害に対しては、国民感情、外交環境、社会・経済・財政事情等諸般の事情を考慮して策定されるべき立法を待って、その保有する資産、すなわち主として現にわが国に在住する人々により、課税その他の方法で負担させられる限られた財源の中から、一定の金員を一定範囲の人々の一定範囲の犠牲・損害の補填に充てることとなるが、立法に際しての右の判断はすぐれて政治的なものであり、そのような立法を待たずに補償の要否、補償内容となるべき受給範囲、支給金額、支給時期及び支給方法等が実定法上一義的に定められているなどということは到底あり得ないことである。したがって、第二次的請求の訴えは、右〈1〉の要件を欠き、不適法である。

(2) また、第二次的請求の訴えは、行訴法の適用を受ける無名抗告訴訟の一類型であるから、当該訴訟の被告は、権利義務の帰属主体たる国ではなく、その公法上の行為を行う国家機関、すなわち法案の提出については内閣(憲法六五条、七二条)、立法行為については国会あるいは衆議院及び参議院(同法四一条、四二条、五九条)でなければならない(行訴法三八条一項、一一条一項)。したがって、国を被告とする第二次的請求は、被告を誤るものであり、この点において既に却下を免れない。

(3) 行訴法三条五項の不作為の違法確認の訴えは、行政庁が特定の申請に対して何らかの処分又は裁決をすべき応答義務を負うにもかかわらず、これをしない場合に、申請人が救済を求める方法として特に認められた抗告訴訟の一類型であるから、申請人が法令に基づく申請権を有することが重要な要件となっているのであり、このことは、右要件を本案の要件あるいは訴訟要件のいずれと解するかにより異なるものではない。

本件の場合、現行法上、原告らが内閣あるいは国会に対し立法に関する何らかの申請を行ったとしても、原告らが内閣あるいは国会に対して、右申請に対する何らかの応答を要求しうる権利までも認めた規定は全く存在しないのである(憲法一六条の保障する請願権も、そのような権利を認めるものではない。)。したがって、第二次的請求は、行訴法三条五項を類推する基礎が全く欠けており、本件において同法上の類推適用はできない。原告が援用する最高裁大法廷昭和五一年四月一四日判決は、実定法上許容されている選挙無効確認訴訟において、選挙無効を確認すべき場合であっても、そのためにかえって「憲法の所期するところに必ずしも適合しない結果を生ずる」場合には、選挙が無効であることを確認するのは相当でないから、選挙が違法であることを主文で宣言するにとどめるべきであるというものであり、その趣旨は、右「憲法の所期するところ」を実現すべく、例外的に行訴法三一条一項前段の規定に含まれる法原理を用いることによって不当な結果の発生を回避したにすぎないのであって、原告らの主張するような実定法上の根拠を欠く訴訟類型を一般的に許容するなどというものでないことは明らかである。

第三証拠

〈証拠略〉

理由

第一国家補償請求(第一次的請求)及び謝罪状交付請求について

一  戦犯者原告ら各自の事実関係

1  原告文泰福

原告文泰福が韓国全羅南道求禮郡で出生したこと、昭和一七年六月に陸軍軍属(傭人)として釜山臨時教育隊に採用されたこと、同年九月二五日タイ俘虜収容所に採用されたこと、昭和二一年八月二三日、イギリス人俘虜の虐待を理由に、絞首刑の判決を宣告されたこと、同原告の刑が後に一〇年の拘禁刑に減刑され、同原告が日本に送還されて巣鴨プリズンで服役したこと及び昭和二七年四月八日に仮釈放により出所したことは、いずれも当事者間に争いがない。

右争いのない事実、〈証拠略〉によれば、次の事実が認められ、この認定を覆すに足る証拠はない。

(一) 原告文泰福(日本名は「文元哲一」)は、大正一二年七月二七日、韓国全羅南道求禮郡良文面(面とは、日本における村に相当する。)において、裕福な造り酒屋の長男として出生し、同郡山洞面院林里二四二に本籍がある。同原告は、東京の錦城中学校を卒業後、故郷に戻っていたが、昭和一七年五月ないし六月ころ、俘虜監視員に応募し、簡単な試験を受け、同年六月一六日、傭人として釜山臨時教育隊に採用された。

(二) 同原告は、右教育隊における訓練を経て、同年九月二五日、一旦解傭され、同日、軍属たる傭人としてタイ及びビルマを管轄するタイ俘虜収容所に採用された。同収容所の各分所は、泰緬鉄道建設現場に沿って設置された。同原告は、チョンカイに本部を有する同収容所第二分所本部及び同分所第一分遣所(ワンラン所在、昭和一八年六月ころチムシャイに移動)において衛兵勤務などに従事した後、同年七月半ばころから、クリアンクライに派遣され、三名の俘虜監視員の取りまとめ役として、俘虜を工事現場に引率するなどの俘虜監視任務に従事した。右建設工事現場に隣接する俘虜の宿舎においては、食料は不足し、多くの俘虜が栄養失調や病気になったが、これに対する医薬品も不足し、マラリア、脚気、赤痢等により一名の俘虜が死亡した。俘虜の使役方法は、朝鮮半島より動員された俘虜監視員(以下「コリアンガード」という。)二名が、作業に従事することが可能である旨前日軍医から報告のあった俘虜を工事現場まで引率するというものであったが、人数が少ないとして、鉄道隊下士官が、病人の俘虜を工事現場に連行して強制的に工事に従事させることもあった。

同原告は、昭和一八年九月、約五〇名の俘虜を一人で引率してクリアンクライから約二四八キロメートルの地点に転任し、同所において同年一〇月の泰緬鉄道完成を迎えてから、ターカヌンの第一分遣所における衛兵勤務などを経て、昭和一九年六月下旬ころ、ターマカムに移動した第二分所に合流し、昭和二〇年一月、カンチャナブリ(後にナコンナヨークに移動)の第七分所に転任した。

(三) 同原告は、ナコンナヨークにおいて終戦を迎え、同年九月二八日(厚生省援護局長作成の履歴書では同年八月二〇日)、イギリス軍により逮捕され、バンコク郊外のバンワン刑務所に収容された。同原告は、昭和二一年一月、シンガポールのチャンギー刑務所に移送され、同年七月二二日、クリアンクライにおける俘虜の死亡などについて取調べを受け、同年八月二三日、シンガポール市内のビクトリア・ホールのイギリス軍事裁判所軍事法廷において、クリアンクライにおいて、病気の俘虜を強制的に作業に従事させて死亡させた等の事実により戦犯裁判を受け、同日、死刑判決の宣告を受けた。なお、同原告は、同日、復員業務規定により解傭された。

(四) 同原告は、同年一二月二日、一〇年の拘禁刑に減刑され、昭和二二年二月ころ、シンガポール市内のオートラム刑務所に移送され、昭和二六年八月二七日、巣鴨プリズンに移送され、各刑務所で服役した。

(五) 同原告は、昭和二七年四月八日に仮釈放により出所し、その後は、服役中に知り合い、先に出所していた同胞を頼って居候をしながら三年間ほど職を転々とし、昭和三〇年、原告李鶴来の紹介で施設に入居して日雇仕事をするようになり、この間に結婚もし、二人の子をもうけ、昭和五一年から、廃棄物処理業を営んでいる。

なお、原告文泰福は、現在、韓国・朝鮮人元BC級戦犯者及び刑死者遺族を構成員とし、日本政府に対して長期拘禁・刑死による損失の補償を要求することを主な目的とする同進会の会長の職にある。

2  原告李鶴来

原告李鶴来が韓国全羅南道宝城郡兼白面沙谷里で出生し、同地に本籍があること、昭和一七年六月に釜山臨時教育隊に採用されたこと、同年にタイ俘虜収容所に陸軍軍属(傭人)として採用されたこと、昭和二二年三月二〇日、シンガポールにおけるオーストラリア軍事法廷において、死刑判決を宣告されたこと、同原告の刑が後に刑期二〇年に減刑されたこと、同原告が昭和二六年八月二七日から巣鴨プリズンで服役したこと及び昭和三一年一〇月六日に仮釈放により出所したことは、いずれも当事者間に争いがない。

右争いのない事実、〈証拠略〉によれば、次の事実が認められ、この認定を覆すに足る証拠はない。

(一) 原告李鶴来(日本名「広村鶴来」)は、大正一四年二月九日(戸籍上の記載は昭和二年四月五日となっている。)、韓国全羅南道宝城郡兼白面沙谷里において、小作農の長男として出生し、同地に本籍がある。同原告は、小学校卒業後、農業や書生をしたりした後、地元の郵便局に勤務したが、右郵便局を退職していた昭和一七年六月ころ、俘虜監視員に応募し、簡単な試験を受け、同年六月一六日、傭人として釜山臨時教育隊に採用された。

(二) 同原告は、右教育隊における訓練を経て、同年一〇月一日、一旦解傭され、同日、タイ俘虜収容所に採用された。その後は、同収容所第四分所本部を経て、カンニュー所在の同分所第三分遣所に配属された後、昭和一八年二月、六名のコリアンガードの責任者として、右コリアンガードのみで、約五〇〇名の俘虜を率いて、泰緬鉄道建設現場であるヒントクに新設された分駐所に赴き、同分駐所及びその後同所に移駐した右第三分遣所に勤務し、当初は分駐所長の欠員下における監視員の責任者として、俘虜を指揮して宿舎の建設に当たり、その後、同年三月ころに分駐所長等上官が赴任してきてからは、右上官の指揮の下に、鉄道建設現場における命令の伝達・俘虜の労務割り、糧秣、収容所内の巡回、監視、カンニューの分遣所との連絡等の任務に従事した。ヒントクにおいては、食料が不足し、工期短縮命令下における労働強化も相まって、多数の俘虜が栄養失調やコレラ、赤痢、マラリア等の病気になり、これに対する医薬品も不足する状況であったが、鉄道隊の要求により、病気の俘虜でも比較的症状の軽い者は作業に駆り出されることがあった。

(三) 同原告は、その後ターモワンに移動した第四分所に勤務した後、昭和二〇年三月ないし四月ころ、バンコクのタイ俘虜収容所本所に移され、同所で終戦を迎えたが、同年九月二九日、連合軍元俘虜の面前を歩かされるといういわゆる首実検を受け、その結果戦犯容疑者としてオーストラリア軍により逮捕された。同原告はバンワン刑務所に収容され、昭和二一年四月ころ、シンガポールのチャンギー刑務所に移送され、同年九月、ヒントクにおける俘虜の死亡などについての取調べを受け、昭和一八年の三月から八月にかけて、ヒントクの俘虜収容所の長(管理将校)であり、責任を怠って食料、被服、医薬品の不足や設備の不備を招き、また、病人を強制的に就労させたなどの四名の元俘虜による告発事実が記載された起訴状を受け取った。

同原告は、同年一二月、起訴状が却下されたとの理由により釈放され、昭和二二年一月七日、復員船で日本へ向かったが、同月一九日、香港に寄港した際、再度拘束されてチャンギー刑務所に収容され、新たな取調べもないまま、同年三月一〇日、右事実に病人を作業に使役させて多数の俘虜を死なせたとの事実が付加され、また、告発人も四名から九名に増えて起訴された。同原告は、同月一八日及び二〇日、同刑務所内のオーストラリア軍法会議仮設軍事法廷において戦犯裁判を受け、同日、死刑判決の宣告を受けた。

(四) 同原告は、同年一一月七日、刑期二〇年に減刑され、同日、復員業務規定により解傭され、昭和二三年一〇月、シンガポールのオートラム刑務所に移送され、昭和二六年八月二七日、巣鴨プリズンに移送され、各刑務所で服役した。なお、同人は、前記人身保護請求訴訟の請求人の一人である。

(五) 同原告は、昭和三一年一〇月六日に仮釈放により出所した。その後は、仕事がないため同進会の雑務をしてその日暮らしの生活を送っていたが、日本人篤志家の今井医師夫妻の援助を得て、同進会会員らと共にタクシー会社(同進交通株式会社)の設立に関与し、昭和三五年に同社設立後はそこに勤務している。

3  原告尹東鉉

原告尹東鉉が大正一一年一一月五日、韓国全羅南道康津郡大口面水洞里で出生したこと、昭和一七年六月に釜山臨時教育隊に採用されたこと、同年九月に陸軍軍属(雇員)としてマレー俘虜収容所に採用されたこと、昭和二二年一一月一〇日、メダンにおけるオランダ軍事法廷において、俘虜虐待との理由で刑期二〇年の判決を宣告されたこと、昭和二五年一月二三日から巣鴨プリズンで服役したこと及び昭和三一年一月六日仮釈放により出所したことは、いずれも当事者間に争いがない。

右争いのない事実、〈証拠略〉によれば、次の事実が認められ、この認定を覆すに足る証拠はない。

(一) 原告尹東鉉(日本名は「伊泉東鉉」)は、大正一一年一一月五日、韓国全羅南道康津郡大口面水洞里において、農家の三人兄弟の次男として出生し、同地に本籍がある。同原告は、中学退学後、強制連行を避けるため、ソウルの親戚の家と実家とを行ったり来たりしていたが、実家に戻っていた昭和一七年五月ころ、俘虜監視員に応募し、試験もないまま、同年六月一六日、雇員(他の戦犯者原告ら傭人と処遇上の区別は特になかった。)として釜山臨時教育隊に採用された。

(二) 同原告は、右教育隊における訓練を経て、同年九月八日、一旦解傭され、同日、マレー半島及びスマトラを管轄するマレー俘虜収容所に採用された。同原告は、同年一〇月ころ、スマトラ・メダン収容所に配属され、同所において衛兵勤務に従事した後、昭和一九年半ばころ、右収容所の俘虜の一部を軍用道路工事に使役させるため、北部スマトラのクタチャネに移動した。右行軍においては、隊長一名、下士官一名及び同原告らコリアンガード一二名で、メダンから約一〇〇〇名の俘虜を率いて、クタチャネにおいて山の麓と上の方とに別れ、山の上では、同原告らコリアンガード五名のみで、約五〇〇名の俘虜を率いて、トラックで丸二日かけて移動した。

同原告は、クタチャネの山の上で、既に日本軍の工兵隊が道路工事をしている部隊に合流し、コリアンガードの責任者として、収容所における俘虜の監視と、工兵隊から前日指示された人数の俘虜を翌朝軍用道路建設工事現場へ引率し、右工事現場での監督を行うなどの業務に従事した。右工事現場の宿舎においては、食料が不足し、マラリア、デング熱等の病気に罹患する俘虜もいたが、工兵隊からの要求人数を満たすため、病気の俘虜が作業に駆り出されたこともあった。

(三) 同原告は、昭和二〇年春ころ、俘虜を率いてクタチャネの山の上から山の麓まで徒歩で一日かけて行軍し、クタチャネからメダンまでトラックで移動した。その後、メダンで農園作業などを行っている中で終戦を迎え、その二、三か月後、他の俘虜収容所の勤務者らと共に、元俘虜によってサバン島に連行され、同島のキャンプにおいて、約半年間、オランダ軍のため薪割りや清掃等の作業をさせられ、その後メダン刑務所に収容された。同原告は、昭和二一年四月一五日、同刑務所における首実検の結果オランダ軍により逮捕され、昭和二二年一一月一〇日、オランダ軍法会議軍事法廷において、俘虜虐待、殴打及び徒歩による行軍の強制などの事実により戦犯裁判を受け、同日、拘禁二〇年の刑を宣告された(同日刑期が八か月減刑された。)。なお、同原告を含むクタチャネにおけるコリアンガード一二名全員が有罪とされたが、その中で同原告の刑が最も重かった。

(四) 同原告は、右判決宣告後、二、三か月間メダン刑務所で服役し、その後チピナン刑務所に移送され、昭和二五年一月二三日、巣鴨プリズンに移送され、各刑務所で服役した。同原告は、昭和三〇年一月ないし二月ころ、仮釈放命令を受けたがこれを拒否し、同年五月二七日、獄中の他のBC級戦犯者と共に、日本政府に対して出所後の住居・就職の斡旋、生活資金の支給又は貸与を要求する請願書を提出した。

(五) 同原告は、昭和三一年一月六日に仮釈放により出所した。その後は、一時宿泊施設に入所し、先に出所した友人の紹介で就職したが、その会社が倒産した後は、同胞が経営するタクシー会社でタクシー運転手の仕事を続け、昭和六〇年に体調を崩して退職し、現在は厚生年金のみで生計を維持している。

4  原告金完根

原告金完根が大正一一年六月二三日、韓国全羅北道完州郡雨田面太平里四二六で出生し、現全州市三川洞に本籍があること、昭和一七年八月に陸軍軍属(傭人)としてジャワ俘虜収容所に採用されたこと、シンガポールにおけるイギリス軍事法廷において刑期一〇年の判決を宣告されたこと、昭和二六年八月二七日から巣鴨プリズンで服役したこと及び昭和二七年三月六日に仮釈放により出所したことは、いずれも当事者間に争いがない。

右争いのない事実、〈証拠略〉によれば、次の事実が認められ、この認定を覆すに足る証拠はない。

(一) 原告金完根(日本名は「金門完根」)は、大正一一年六月二三日、韓国全羅北道完州郡雨田面太平里四二六において、小作農の長男として出生し、現全州市三川洞に本籍がある。同原告は、小学校卒業後、完州郡庁の田作課の指導員として勤務していたが、昭和一七年六月ころ、俘虜監視員に応募し、傭人として釜山臨時教育隊に採用された。

(二) 同原告は、右教育隊における訓練を経て、同年八月一九日、傭人としてジャワ俘虜収容所に採用され、スラバヤ所在のジャワ俘虜収容所第三分所第三分遣所において、亡卞鐘尹と共に勤務した後、昭和一八年三月ないし四月ころ、ハルク島派遣第三分所に配属され、同分所において、航空隊の指示により俘虜を飛行場建設作業に従事させ、右作業現場において監視する等の任務に従事した。同分所には、約一五〇〇ないし二〇〇〇名の俘虜が収容され、約六〇名の監視員が勤務していた。ハルク島における飛行場建設作業は、堅い珊瑚礁の上でスコップ、ジョレン(鉄製の鋤状のもの)、もっこなどを用いて全部手作業により掘削、運搬をするという重労働であったが、食料は不足し、特に空襲が始まると食料の供給が途絶え、多くの俘虜が栄養失調となり、また、毎日スコールが降り、晴れると全くの炎天下となるという天候によって、デング熱、マラリア、赤痢などの病気になった俘虜はすぐに弱ってしまう状態であった。しかし、これに対する医薬品は不足し、俘虜の中から次第に死亡者が出はじめ、戦争末期には毎日三、四人もの俘虜が死亡し、合計では約三〇〇ないし四〇〇名の俘虜が死亡した。また、同原告は、ハルク島における勤務中、アンボン島の飛行場拡張工事の応援のため赴いたこともあったが、同島での状況も、右ハルク島における状況とほぼ同様であった。

(三) 同原告は、昭和一九年末ころ、重病人の俘虜約五〇〇名を率いて船でバタビアへ戻ったが、途中、約一〇名の俘虜が炎天下の運航により衰弱するなどして死亡した。同原告は、バタビアで俘虜監視任務に従事し、その後スモウォノの教育隊での戦闘訓練などを経て、スラバヤの水上憲兵隊で事務、内勤を行っている中で日本敗戦を迎え、昭和二〇年一一月一一日、首実検の結果、オランダ軍によって逮捕され、バタビア市内のグロドック刑務所に収容された。同原告は、同年一二月七日、オーストラリア軍によりシンガポールのオートラム刑務所に移送され、昭和二一年一月一一日、チャンギー刑務所に移送され、同年六月二七日起訴され、同年七月三日、ハルク島における食料不足、医薬品不足、俘虜虐待、俘虜の大勢の死亡等の事実により、シンガポールのイギリス軍事裁判所軍事法廷で戦犯裁判を受け、同月二六日、拘禁一〇年の刑を宣告された。なお、ハルク島関係の戦犯裁判においては、日本軍人七名が死刑判決を宣告された。

(四) 同原告は、判決宣告後オートラム刑務所に収容されて同所で服役し、昭和二六年八月二七日、巣鴨プリズンに移送されて同所で服役した。

(五) 同原告は、昭和二七年三月六日、仮釈放により出所した(昭和二八年一〇月二五日刑期満了)。出所後は、貧窮の中で職を転々とし、結婚して三人の子をもうけ、在日大韓民国民団西東京本部に勤務し、平成七年六月に同民団を退職した。また、昭和三五年に一時帰国したが、BC級戦犯者及びその家族が、対日協力者として故郷で白眼視されていると感じたことから、永住帰国を断念した。

5  原告文済行

原告文済行が大正一一年四月一一日、韓国全羅南道和順郡東面舞浦里で出生し、同地に本籍があること、昭和一七年八月に陸軍軍属(傭人)としてジャワ俘虜収容所に採用されたこと、バタビアにおけるオランダ軍事法廷において刑期一〇年の判決を宣告されたこと、巣鴨プリズンに移監されて同所で服役したこと及び昭和二六年八月八日仮釈放により出所したことは、いずれも当事者間に争いがない。

右争いのない事実、〈証拠略〉によれば、次の事実が認められ、この認定を覆すに足る証拠はない。

(一) 原告文済行(日本名は「文平済行」)は、大正一一年四月一一日、韓国全羅南道和順郡東面舞浦里七二において、裕福な農家の五人兄弟の長男として出生し、同地に本籍がある。同原告は、小学校卒業後、家業の手伝い等を経て、昭和一六年より面役場の嘱託として勤務していたが、昭和一七年五月ころ、俘虜監視員に応募し、同年六月一二日、釜山臨時教育隊に採用された。

(二) 同原告は、右教育隊における訓練を経て、同年八月一九日、一旦解傭され、軍属たる傭人としてジャワ俘虜収容所に採用され、同年九月、同収容所第四分所に配属され、ジャワ東部のマランの同分所第三分遣所において歩哨勤務に従事した。そして、昭和一八年四月より、第四分所の閉鎖に伴い俘虜をスラバヤやジャカルタまで移送する業務に従事し、その後はジャカルタのジャワ俘虜収容所本所勤務隊において事務に従事したが、同所において、デング熱に罹患した。同原告は、同年七月よりジャカルタ総分遣所の第五分遣所において、衛兵勤務、農作業に従事する俘虜の監視等の任務に従事し、昭和一九年四月よりジャワ中部スマランのインドネシア人兵補の教育隊において、教官助手として勤務した後、同年六月、右兵補と共に同地におけるオランダの民間人が収容されているジャワ俘虜収容所第二分所第一分遣所第五抑留所に配属された。

同抑留所には、男性がアンバラワ方面へ移送された後は女性と子供だけが収容され、収容者たちは自治組織を作って生活していたが、同年七月ころから、分遣所長からの命令により収容者に対して農作業が課せられるようになった。同原告は、日報の作成や農場の視察、抑留者に対する指示の伝達等の任務に従事した。

(三) 同原告は、同年一〇月より、スモウォノの教育隊に配属されて戦闘訓練を受けた後、同年一二月より、スマランの第一分遣所に配属されて経理等の業務に従事し、また、昭和二〇年一月にアンバラワで勃発したコリアンガード(高麗独立青年隊)の反乱の鎮圧のため出動する等した後、同年三月、ジャワ東部防衛隊の工兵隊に配属され、ボジョネゴロの臨時部隊本部において終戦を知った。なお、同原告は、右スモウォノにおける訓練中、つまずいて右目を同僚の銃口に当てて負傷し、また、右防衛隊における勤務中、マラリアに罹患した。

同原告は、昭和二一年二月一八日、抑留所及び俘虜収容所に勤務していた他の者らと共にイギリス軍によりスマラン刑務所に収容され、その一週間ないし一〇日後、ジャカルタ市内のグロドック刑務所に移送され、首実検を受けたが、戦犯容疑者として指名する者はなく、約六か月間拘束された後釈放された。同原告は、右釈放後、約三か月間、イギリス軍の弾薬庫建設の作業隊員として稼働した。

その後、同原告は、戦犯警察により逮捕され、同年九月又は一〇月ころチピナン刑務所に収容された。同原告は、昭和二二年八月ころ、前記抑留所の収容者による首実検を受け、右抑留所における食料品や医薬品の不足、収容人員過剰という悪環境に収容者を置き、故意に断水をして収容者に不利益をかけたこと、収容者に暴行したこと等の事実につき取調べを受け、同年一一月二七日、右事実によりオランダ軍法会議軍事法廷による戦犯裁判を受け、同日、拘禁一〇年の刑が言い渡された。同日、復員業務規定により解傭された。

(四) 同原告は、主としてジャワ島にあるチピナン刑務所において服役したが、同刑務所における労役作業中、同じく戦犯として服役していた訴外李永吉が精神障害を来すという出来事もあった(同人は、釈放後精神病院に収容されたまま、平成三年八月二一日に死亡した。)。同原告は、昭和二五年一月二三日、巣鴨プリズンに移送されて同所で服役した。

(五) 同原告は、昭和二六年八月八日に仮釈放により出所した。その後は、身元引受け先の寮に住み、タクシー会社の内勤、タクシー運転手、ホテルの支配人や食堂のマネージャー等を経て、昭和三一年より飲食店業を営んでいたが、現在は、糖尿病及び心筋梗塞を患い、飲食店業を引退して無職である。また、前記スモウォノの教育隊における右目の負傷の後遺症で、右目の視力はほとんどなく、マラリアの後遺症により両膝の関節も不調である。

6  原告朴允商

原告朴允商が大正三年一月一五日、韓国忠清北道鎮川郡栢谷面沙松里で出生し、同地に本籍があること、昭和一七年八月に陸軍軍属(傭人)としてジャワ俘虜収容所に採用されたこと、昭和二三年二月二五日、バタビアにおけるオランダ軍事法廷において刑期一五年の判決を宣告されたこと、昭和二五年一月二三日から巣鴨プリズンで服役したこと及び昭和二九年三月一八日に仮釈放により出所したことは、いずれも当事者間に争いがない。

右争いのない事実、〈証拠略〉によれば、次の事実が認められ、この認定を覆すに足る証拠はない。

(一) 原告朴允商(日本名は「大川允商」)は、大正元年(戸籍上は一九一四年(大正三年)とされている。)一月一五日、韓国忠清北道鎮川郡栢谷面沙松里四四三において、小作農の長男として出生し、同地に本籍がある。同原告は、小学校を四年で退学し、丁稚奉公などを経て、家業の農業に従事していたところ、昭和一七年、俘虜監視員に応募し、試験もないまま、同年六月、釜山の臨時教育隊に採用された。

(二) 同原告は、右教育隊における訓練の後、同年八月一九日、傭人としてジャワ俘虜収容所に採用され、同年九月、ジャカルタ総分遣所に配属され、同所の第一分遣所での歩哨任務等を経て、昭和一八年八月、ハルク島に本部を有する派遣第三分所の第一分遣所に配属され、アンボン島のリアンで飛行場建設の突貫工事に使役される約七〇〇人ないし九〇〇人の俘虜の監視に従事した。右飛行場建設作業は、炎天下において、珊瑚礁の堅い地面をつるはし及びスコップを用いて手作業で掘削し、掘った土を二人一組となって担架に乗せて運び地均しをし、椰子の木一本掘り除くのに一週間ないし一〇日かかるという苛酷なものであったが、結局飛行場は完成しなかった。同島では食料の自給が困難であり、戦局の悪化に伴いジャワからの船による輸送が途絶えると、食料事情は悪化の一途をたどり、多くの俘虜が栄養失調となり、マラリア、脚気、赤痢などの病気が蔓延したが、これに対する医薬品は欠乏し、多いときは一日に一三人もの俘虜が死亡し、アンボン島で合計約二〇〇人ないし三〇〇人の俘虜が死亡した。

同原告は、昭和一九年六月、ジャワへの撤退策に伴い約二〇〇名の俘虜と共にアンボン島を船で脱出し、連合軍の襲撃を避けてセレベス島傍のムナ島に約一年間滞留した。同島での食生活は劣悪で、俘虜のほとんどが病気となった。同原告は、昭和二〇年初めころ、病気の俘虜約一〇〇名と共に二〇〇トンの木造船でジャワへ向け出発したが、連合軍の機銃掃射を受け、同僚の監視員一名が死亡し、同原告も背中に銃撃を受けて負傷した。船は、焼夷弾攻撃により焼失・沈没し、乗員は全員海に飛び込み、板などに捕まって漂流し、日本軍の船に救助されムナ島へ戻った。同原告は、同年八月、俘虜と共に同島を船で出発し、途中セレベス島ワタンポネに一日滞在して、ジャワのスラバヤに上陸した。

(三) 同原告は、スラバヤにおいて終戦を知り、昭和二一年四月一三日、オランダ軍により逮捕されてチャンギー刑務所に収容された。同原告は、その後バタビアのチピナン刑務所に移送され、首実検も取調べも受けることなく、オランダ軍法会議軍事法廷で戦犯裁判を受け、昭和二三年二月二五日、拘禁一五年の刑の宣告を受けたが(同日刑期が八か月減刑された。)、正確な被疑事実・起訴事実は不明である。同日、同原告は復員業務規定により解傭された。なお、アンボン島の第三分所に勤務していた者の中では、元コリアンガードからは死刑とされた者はいなかったが、日本人からは分所長をはじめ多数の刑死者が出た。

(四) 同原告は、判決宣告後チピナン刑務所で服役し、昭和二五年一月二三日、巣鴨プリズンに移送されて服役した。その間、父と妻が、同原告がチャンギー刑務所において服役中に死亡していたことを知らされたが、その詳細は不明であった。

(五) 同原告は、昭和二九年三月一八日、仮釈放により出所した。その後はゴム長靴加工工場従業員を経て、昭和三五年から同進交通株式会社のタクシー運転手となり、昭和五五年まで勤続し、昭和五一年には再婚した。なお、同原告は、昭和三七年に一時帰国した時、同人の妻が、昭和二三年一二月二七日、同原告が戦犯として有罪とされ、その結果周囲から対日協力者として白眼視されることを苦に自殺したことを知らされた。同原告は、昭和六〇年、右再婚した妻と共に韓国に永住帰国し、仁川市のアパートに居住しているが、現在も前記戦争中に受けた背中の傷の後遺症がある。

7  亡卞鐘尹(原告卞光洙)

原告卞光洙の父である亡卞鐘尹が大正九年四月二六日(戸籍上は六月一一日)、韓国忠清北道清州郡(現清原郡)北一面飛上里で出生したこと、昭和一七年八月に陸軍軍属(傭人)としてジャワ俘虜収容所に採用されたこと及びバタビアにおけるオランダ軍事法廷において死刑の判決を宣告され、その刑を執行されたことは、いずれも当事者間に争いがない。

右争いのない事実、〈証拠略〉によれば、次の事実が認められ、この認定を覆すに足る証拠はない。

(一) 亡卞鐘尹(日本名は「柏村鐘尹」又は「柏村欽信」。以下「亡卞」という。)は、一九二〇(大正九)年四月二六日(戸籍上は同年六月一一日となっている。)、韓国忠清北道清州郡(現清原郡)北一面飛上里二三五において、農家の長男として出生し、同地に本籍があった。亡卞鐘尹は、昭和一六年四月九日、妻亡洪七奉との間に長男である原告卞光洙をもうけた。亡卞は、昭和一七年、俘虜監視員に応募し、同年六月、釜山臨時教育隊に採用された。

(二) 亡卞は、右教育隊における訓練を経て、同年八月一九日、傭人としてジャワ俘虜収容所に採用され、同収容所スラバヤ第三分遣所本部に配属され、総務、庶務関係の業務、主に泰緬鉄道建設現場に使役される俘虜の監視任務に従事し、約一年後、約三〇〇名ないし四〇〇名の俘虜を率いてフロレス島マウメレに移動し、同地において、約二〇ないし三〇名のコリアンガードの班長として、飛行場建設作業に使役させる俘虜の監視業務に従事した。同地では、到着当初は宿舎や施設ができておらず、また、野営しているときに赤痢が流行し、多数の俘虜が死亡した。右俘虜は同年中に、亡卞らコリアンガードと共にマウメレからバタビアに戻され、亡卞は終戦までバタビアの分遣所において俘虜の監視業務に従事した。

(三) 亡卞は、バタビアにおいて終戦を迎え、昭和二一年四月九日、オランダ軍により俘虜虐待の疑いで逮捕され、バタビア市内のグロドック刑務所に拘束された。亡卞は、同刑務所内で脱獄を企てたところ、看守に発見され、割腹自殺を図ったが、ジャカルタ憲兵隊の小林軍医の処置により一命をとりとめ、昭和二二年五月一日、オランダ軍法会議軍事法廷において、死刑判決を宣告され、同日、復員業務規定により解傭された。右裁判において死刑を宣告されたコリアンガードは、いずれもコリアンガードの班長の地位にあった者である。亡卞は、同年九月五日、チピナン刑務所において銃殺により右刑を執行され、二七歳で死亡した。

(四) 亡卞の妻洪七奉は、昭和六〇年一一月三〇日死亡し、原告卞光洙が亡卞及び右洪の唯一の相続人である。同原告は、亡卞につき、同人が一九六一年(昭和三六年)四月一〇日に本籍地において死亡した旨の申告をなし、その旨戸籍に記載されたが、後に、一九四七年(昭和二二年)九月五日ジャワ島バタビア市グロドック刑務所において死亡と訂正されている。同原告は、昭和四六年、対日民間請求権申告の手続により、二度にわたり韓国政府に対し、亡卞の刑死に対する補償を請求したが、昭和五〇年四月二八日、昭和二〇年八月一五日以前に日本国及び日本国民に対して発生した請求権ではないとの理由で受理拒否の決定がなされた。

同原告は、現在、韓国に在住し、韓国忠清北道立報恩農工高等学校において畜産学の教師として勤務している。また、同原告は一九六七(昭和四二)年に結婚した妻との間に三人の子がある。

二  条理に基づく国家補償請求について

1  原告李鶴来、原告尹東鉉及び原告朴允商を含む韓国・朝鮮人BC級戦犯者二九名並びに台湾人BC級戦犯者一名(請求者ら)が、巣鴨刑務所在監中の昭和二七年、サン・フランシスコ平和条約発効に伴い日本国籍を喪失した右韓国・朝鮮人及び台湾人戦犯者らについて、日本政府が拘禁を解かないのは違法であるとして、東京地方裁判所に人身保護請求の訴えを提起したこと、提訴後、最高裁判所が右事件の送致命令を発し、同年七月三〇日、戦犯者として刑が科せられた当時日本国民であり、かつ、その後引き続き右平和条約発効の直前まで日本国民として拘禁されていた者に対しては、日本国は右平和条約一一条により刑の執行の義務を負い、右平和条約発行後における国籍の喪失又は変更は、右義務に影響を及ぼさないとして、請求者らの請求を棄却する判決を言い渡したことは、当事者間に争いがない。

2  そして、〈証拠略〉によれば、右戦争終結後における元軍人軍属及びその遺族の補償状況につき、次の事実が認められる(条約及び法律関係の事実は、当裁判所に顕著な事実である。)。

(一) 日本国民である軍人軍属等が戦死傷した場合、恩給法(大正一二年法律第四八号)等により恩給、扶助料が支給されていたが、連合国最高司令部(GHQ)の指示に基づき、昭和二一年一月三一日の勅令第六八号により、軍人軍属及びその遺族に対する恩給、扶助料の支給は、一部重度の戦傷病者に対するものを除き停止され、同年の恩給法の改正により廃止された。そして、傷病兵に関する軍事扶助法及び戦災被害者に関する戦時災害保護法も、旧生活保護法(昭和二一年法律第一七号)制定と共に廃止され、社会保障制度一般の中に組み込まれた(いわゆる「軍人恩給の廃止」)。

(二) 昭和二七年四月二八日、連合国と日本国との平和条約(サン・フランシスコ平和条約)が発効し、その第二条(a)において、日本国は朝鮮の独立を承認して、済州島、巨文島及び鬱陵島を含む朝鮮に対するすべての権利、権原及び請求権を放棄し、同条(b)において、台湾及び澎湖諸島に対するすべての権利、権原及び請求権を放棄し、四条(a)において、これらの地域の施政を行っている当局及びそこの住民の日本国及び日本国民に対する請求権の処理は、日本国とこれらの当局との間の特別取極の主題とするとされた。

(三) 右平和条約発効後、後記日韓協定前後にかけて、戦傷病者、戦没者、未帰還及び引揚者に対し、弔慰金や特別給付金を支給する戦傷病者戦没者遺族等援護法、未帰還者留守家族等援護法及び引揚者給付金等支給法等の法律が制定されたが、その対象は軍人、軍属、準軍属(国家総動員法による被徴用者、動員学徒等)及びその遺族、家族とされ、また、日本の国籍を失った者や戸籍法の適用を受けない者を除外する条項(いわゆる「国籍条項」)がもうけられた。もっとも、原子爆弾の被爆者については、原子爆弾被爆者の医療等に関する法律(昭和三二年三月)及び原子爆弾被爆者に対する特別措置に関する法律(昭和四三年五月)が制定されたが、これについては、右国籍条項はない。戦犯受刑者については、当初右対象から除外されていたが、昭和二八年の戦傷病者戦没者遺族等援護法の改正により、対象に含まれることとなった。また、同年八月一日施行の恩給法改正により元軍人軍属及びその遺族に対する恩給の支給が復活されたが、この時点においては、朝鮮半島及び台湾出身者はサン・フランシスコ平和条約により日本の国籍を失っていたため、同法の規定の趣旨に照らし、恩給の支給を受ける資格を有しないこととなった。

(四) 日本政府は、戦犯者原告らを含む巣鴨刑務所を出所した朝鮮半島及び台湾出身戦犯者に対し、次の措置を講じた。

(1) 巣鴨入所中(昭和二八年八月から昭和三二年四月)、その家族(独身者の場合積立て)に対し、盆、暮に各六〇〇〇円を支給した。

(2) 昭和三〇年度及び昭和三一年度に一時居住施設の経費として合計一〇〇〇万円を台湾人出所者の団体友和会及び朝鮮人出所者団体清交会に交付し、右各団体は各三か所の施設を設けた。また、昭和三〇年度から三二年度にわたり、生業資金として、合計六四五万円を財団法人更生助成会に委託し、一人五万円を限度として期間五年以上、利率年六分の条件で貸付けを行った。

(3) 昭和三二年度予算において、「巣鴨刑務所出所者等援護費補助金」として一三二人分の六六〇万円を計上し、友和会及び清交会を通して一人につき五万円を生活資金として支給した(六人分は帰国等の事情で支給できなかった。)。

(4) 昭和三三年一二月の閣議了解に基づき、一人につき一〇万円ずつ合計一二六〇万円が交付され、昭和三五年七月一三日、生業の確保として、台湾人出所者関係のペンギン自動車株式会社及び朝鮮人出所者関係の同進交通株式会社に対し、一般乗用旅客自動車運送事業(タクシー事業)の免許が与えられ、また、都道府県知事に対し、第二種公営住宅への入居者の選考に当たっては、巣鴨刑務所出所者を住宅の困窮度が著しく高いものとして優先的に取り扱うよう通牒を出した。

(五) 昭和四〇年六月二二日、前記サン・フランシスコ平和条約第四条(a)に基づき、日本国と韓国との間において、財産及び請求権に関する問題の解決並びに経済協力に関する日本国と大韓民国との間の協定(韓国との請求権・経済協力協定)が署名された(同年一二月一八日効力発生)。同協定第二条は、「両締約国は、両締約国及びその国民(法人を含む。)の財産・権利及び利益並びに両締約国及びその国民の間の請求権に関する問題が、一九五一年九月八日にサン・フランシスコ市で署名された日本国との平和条約第四条(a)に規定されたものを含めて、完全かつ最終的に解決されたこととなることを確認する。」(第一項)、「この条の規定は、次のもの(この協定の署名の日までにそれぞれ締約国が執った特別の措置の対象となったものを除く。)に影響を及ぼすものではない。(a)一方の締約国の国民で一九四七年八月一五日からこの協定の署名の日までの間に他方の締約国に居住したことがあるものの財産、権利及び利益、(b)一方の締約国及びその国民の財産、権利及び利益であって一九四五年八月一五日以後における通常の接触の過程において取得され又は他方の締約国の管轄の下にはいったもの」(第二項)、「第二項の規定に従うことを条件として、一方の締約国及びその国民の財産、権利及び利益であってこの協定の署名の日に他方の締約国の管轄の下にあるものに対する措置並びに一方の締約国及びその国民の他方の締約国及びその国民に対するすべての請求権であって同日以前に生じた事由に基づくものに関しては、いかなる主張もすることはできないものとする。」(第三項)と規定している。

また、同協定について合意された議事録では、同協定二条の財産、権利及び利益は、法律上の根拠に基づき財産的価値を認められるすべての実体的権利をいうことが了解されたと規定されている。

(六) この協定を受けて、韓国においては、請求権資金の運用及び管理に関する法律(一九六六年二月)、対日民間請求権申告に関する法律(一九七一年一月)及び対日民間請求権補償に関する法律(一九七四年一二月)が制定され、韓国国民が有している一九四五年八月一五日までの日本国に対する民間請求権はこれらの法律に定める請求権資金の中から補償しなければならないものとされ、韓国政府は日本国からの無償供与資金三億ドル(当時の為替レートで一〇八〇億円)の一部でその補償を行ったが、一九四七年八月一五日から一九六五年六月二二日まで日本に居住したことがある大韓民国国民を申告対象から除外した。一方、日本においては、国内法的措置として、財産及び請求権に関する問題の解決並びに経済協力に関する日本国と大韓民国との間の協定第二条の実施に伴う大韓民国等の財産権に対する措置に関する法律(昭和四〇年一二月)が制定され、韓国及び同国民の前記協定にいう財産、権利及び利益は原則として同協定署名日に消滅したものとされたが、右在日韓国人の財産、権利及び利益については同法から除外され、前記国籍条項が存置されるままになった。

この意味につき、平成三年八月二七日の参議院予算委員会において、柳井俊二政府委員は、「日韓両国間において存在しておりましたそれぞれの国民の請求権を含めて解決したということでございますが、これは日韓両国が国家として持っております外交保護権を相互に放棄したということでございます。したがいまして、いわゆる個人の請求権そのものを国内法的な意味で消滅させたというものではございません」と答弁している。

(七) この間、原告らの韓国・朝鮮人元BC級戦犯者及び刑死者遺族は、昭和三〇年四月一日、刑死者の遺骨送還の要請並びに生活資金の支給、貸与、住宅及び就職の斡旋等のいわゆる一般的な「生活保護」の要請とともに、長期拘禁・刑死による損失の国家補償の要請を主たる目的とする同進会を設立した。同会は、昭和三二年八月一四日より、韓国出身戦犯の刑死者遺族に対し、刑死者一人当たり金五〇〇万円、服役戦犯者に対し逮捕日から出所日まで拘禁日数一日当たり金五〇〇円の割合による金額の支給を内容とする国家補償の要求を開始し、以後現在に至るまで、昭和五二年九月には補償要求額を刑死者遺族に対し五〇〇〇万円、服役者に対し拘禁一日当たり五〇〇〇円と改め、右要求を繰り返している。日本政府は、右要求に応ずべく努力する旨答えていたが、前記日韓協定後は、連合国の軍事法廷により死刑に処せられた韓国出身者の遺骨については、外交ルートを通じて誠意をもって遺族の元へ届けるようしているものの、元韓国出身戦犯者に対する補償については、法律上の責任がなく、日韓協定により解決済みであるとして、右要求に応じていない(この事実は当事者間に争いがない。)。

(八) 台湾人元軍人軍属については、昭和二七年四月二八日発効の日本国と中華民国との間の平和条約において、日本国及びその国民に対する中華民国の当局及び台湾住民の請求権の処理は、日本国政府と中華民国との間の特別取極の主題とする旨定められたが、昭和四七年九月二九日の日本国政府と中華人民共和国政府との共同声明により、日本国政府は中華人民共和国政府が唯一の合法政府であることを承認した結果、右特別取極の協議が事実上不可能となったことに鑑み、議員立法により、台湾住民である戦没者の遺族等に対する弔慰金等に関する法律(昭和六二年九月)及び特定弔慰金等の支給に関する法律(昭和六三年五月)が制定されて、戦没者及び重度の戦傷者に対し弔慰金等が支給されるようになった。

3  原告らは、以上の戦犯者原告らが今次の戦争により被った損害及びこれに対する補償に関する立法状況などから、条理による国家補償請求権が認められるべきである旨主張するので、以下、検討することとする。

(一) 今次の戦争において、サン・フランシスコ平和条約の発効により日本国籍を喪失した朝鮮半島及び台湾出身者を含む多数の日本国民が、甚大な生命・身体・財産上の損害を被ったことは公知の事実であるが、右は、多かれ少なかれ国民各層が直接・間接に参加する戦争といういわば国家の存亡にかかわる非常事態において発生した損害であり、これは、戦争犠牲又は戦争損害として国民が等しく受忍しなければならないものであって、戦争放棄を定めた現行憲法を頂点とするわが国の法制度全体において、これに対する補償は全く予想されていないものといわざるを得ない(最高裁昭和四三年一一月二七日大法廷判決・民集二二巻一二号二八〇八頁、最高裁昭和四四年七月四日第二小法廷判決・民集二三巻八号一三二一頁、最高裁平成四年四月二八日第三小法廷判決・判例時報一四二二号九一頁参照)。

(二) この点、原告らは、そのいうところの植民地政策、皇民化政策により強制的に日本人にされ、サン・フランシスコ平和条約の発効により一方的に日本国籍を剥奪された戦犯者原告らを、一般の日本国民と同列に扱うことはできず、戦犯者原告らが日本国の戦犯として処罰されたことによる生命・身体の損失は、日本国民すべてが受忍すべき一般の戦争犠牲ないし戦争損害とは区別される特別の犠牲である旨主張する。

しかし、日本国の右皇民化政策、植民地支配によるものであるとしても、戦犯者原告らが日本軍属たる俘虜監視員として勤務し、日本敗戦後戦争犯罪を犯したとして戦犯裁判を受けて有罪とされ、亡卞が銃殺刑を執行され、その余の戦犯者原告らが現地において服役した当時において、日本国籍を有する日本国民であったことは明らかである。そして、亡卞を除くその余の戦犯者原告らは、右平和条約発効により日本国籍を喪失したのであるが、戦犯として刑が科せられた当時日本国籍を有し、かつ、その後引き続き右平和条約発効の直前まで日本国民として拘禁されていた者に対して、日本国は右平和条約一一条により刑の執行の義務を負っており、右平和条約発行後における国籍の喪失又は変更は、右義務に影響を及ぼさず、以後の日本政府による刑の執行は、連合国が従来自らの権利として行使していた刑の執行を引き続き右平和条約上の義務の履行として行うという性質のものにすぎないというのが確定した判決であり(前記人身保護請求事件最高裁判決)、この判決に従えば、右平和条約発効の前後において、亡卞を除く戦犯者原告らに対する右刑の執行の根拠は本質的に異ならないというべきである。

したがって、戦争犯罪の責任は誰が負うべきか、国家に帰せられるのか個人に帰せられるのか及びいわゆる上官命令の抗弁(俘虜虐待等の戦争犯罪は、上官命令により行ったものであるから、自分に責任はないとの抗弁)の成否という困難な問題はさておき、戦犯者原告らが被った右生命・身体に関する損失は、日本軍属として俘虜監視任務に従事し、日本の敗戦及びポツダム宣言受諾により、戦争中から日本軍の俘虜処遇を重視していた連合国軍の軍事裁判により、戦犯として個人責任を問われ処罰されたことによるものであり、結局のところ、今次の戦争及び日本の敗戦という事実に基づいて生じた、日本国民が等しく受忍すべき右戦争犠牲ないし戦争損害と同視すべきものであるというべきである。

(三) また、原告らは、前記戦後補償立法の根底には、右特殊な戦争犠牲ないし戦争損害について、戦争遂行主体であった当該国家が自らの責任により補償すべきであるとする条理が存在するとして、戦犯者原告らの被った右損失も右特殊な戦争犠牲ないし戦争損害であるから、被告は条理上当然にこれを補償すべきである旨主張する。

確かに、今次の戦争における戦争損害の中には、原爆による被害など、人類がかつて体験したことのない悲惨極まりないものが存在することは公知の事実であり、戦争犠牲ないし戦争損害に対する補償が現行憲法上全く予想されていないものであるとしても、日本国が、その国際的地位を高めるためにも、内外人の差別を禁じた市民的及び政治的権利に関する国際規約及び人道的見地等から、これについて亡卞を除く戦犯者原告らを含む巣鴨刑務所を出所した朝鮮半島及び台湾出身戦犯者に対してなされた前記2(四)及び(六)の補償措置を含め、わが国の元軍人軍属及びその遺族に対する援護措置に相当するような措置を講じることが望ましいことはいうまでもない。

しかし、戦争犠牲ないし戦争被害のうちいかなる範囲のものについていかなる救済を行うかということは、国の財政事情、戦争犠牲の内容、他の戦争犠牲者等との均衡、国民感情、国際環境等の諸要素を勘案しつつ、高度の政策的裁量判断によって決すべき国の立法政策に属する問題であるというべきである。そして、戦争犠牲者等に対する補償を定めた前記各法律は、人道的見地若しくは国家補償の精神から制定されたことは否定できないものの、軍人軍属であった者及びその遺族に対する生活扶助をはかる一面を有するのであり、このような援助は当該対象者の属する国の社会保障政策に関わる問題でもある。右各法律は、前記原爆の被爆者に対する医療及び特別措置に関する法律を除き、いわゆる国籍条項をもうけ、日韓協定後もこれを廃止することなく、戦犯者原告ら朝鮮半島出身者をその対象から除外し、原告朴允商及び原告卞光洙を除く在日韓国人であるその余の原告らについては、韓国政府からの特別弔慰金支給の対象にもならないとされたが、前示認定のサン・フランシスコ平和条約を経て日韓協定に至るまでの経緯に照らせば、朝鮮半島出身者の請求権の問題は両国政府の外交交渉によって解決されることが予定され、かつ、そのように処理されたことに基づくのであって、このことには合理的根拠があり、合理的理由のない差別を禁止した憲法一四条に違反するものでもない(前掲最高裁平成四年四月二八日判決及び台湾人元軍人軍属に対する補償の経過参照)。したがって、韓国・朝鮮人元BC級戦犯者は、日本軍の組織的な俘虜処遇政策のもとに、日本軍属として俘虜監視任務に従事したところ、その際俘虜虐待等の犯罪行為を犯したとして、俘虜の所属する各連合国軍事裁判所により戦争犯罪の責任を問われたものであり、これは、戦争遂行主体であった日本軍との関係でみれば、戦争犠牲ないし戦争損害の一面を有することは否定できないが、前記のとおり、日本国がこのような戦争犯罪を犯した者を戦争犠牲者とし、これら戦犯者に対し、いかなる措置を講じるべきか、補償をするとしてその給付の範囲、給付額、給付時期及び給付方法等は具体的にどのようにするかは、財政事情、国民感情及び国際関係等の高度な政策的考慮によって判断する事柄であるというべきであるから、原告らの主張するごとく、刑事補償法に準じた一定額の給付の一括支払を求める態様の補償請求権が条理上当然に導かれるとはいい難い。

(四) 以上の次第で、原告らの右各主張は採用することはできない。

三  雇用契約上の債務不履行に基づく損害賠償請求について

1  戦犯者原告らが、俘虜監視を任務とする日本軍属たる傭人ないし雇員として採用されたことは、当事者間に争いがなく、本件全資料によっても、戦犯者原告らの右採用が、国民徴用令に基づく徴用であったと認めるに足る証拠はない。

2  先に認定した戦犯者原告ら各自の事実関係及び〈証拠略〉によれば、戦犯者原告らは、右採用後、釜山の臨時教育隊(野口部隊)において宣誓の上軍属とされたことが認められるところ、軍属(傭人ないし雇員を含む。)は、陸軍刑法の適用、宣誓義務等については軍人と同様の取扱いを受け、上官の命令に対する服従義務を負うものとされていた。また、大日本帝国憲法三二条の解釈上も、軍の特別権力すなわち統帥権に服することを要するのは現に軍隊に所属する者に限られるから、軍人の身分ある者であっても軍隊に所属しない間はその適用がない反面、軍人の身分のない軍属であっても、現に軍隊に所属する限り同様に適用を受けると解されていた。これらに照らせば、軍属は、本来的には戦闘員でないとしても、軍隊に所属する限りその本質は極めて軍人に類似していたということができる。したがって、軍属の勤務関係の法的性質は、対等の当事者間の自由な意思の合致により形成される私法上の契約関係とは著しくその性質を異にし、権力関係たる公法関係と解すべきであり、私的自治の原則の下に対等な当事者間の利害調整を目的とする民法をはじめとする私法規定は、法の一般原理及び技術的約束に当たるものを除き、右軍属の勤務関係には適用がないものというべきである。

3  そうすると、戦犯者原告らと被告との勤務関係が、民法上の雇用契約に基づくものであることを前提とし、被告の右契約上の義務違反に基づく損害賠償を求める原告らの請求は、その余の点につき判断するまでもなく理由がない。

四  名誉毀損に基づく謝罪状交付請求について

1  原告らは、戦犯者原告らは日本国の韓国併合及び皇民化政策により自らの民族である朝鮮民族を隷属化された上、日本軍の国際法に違反した俘虜政策の責任を肩代わりさせられ、かつ、日本軍が自ら宣戦布告した戦争の終結と日本国の独立回復のためにポツダム宣言及びサン・フランシスコ平和条約を受忍したことによって、BC級戦犯として逮捕されて、有罪判決を受け、死刑若しくは有期拘禁刑の執行を受け、今日に至るまで日本国内外において、とりわけ同胞から「日本の戦犯」「対日協力者」として白眼視され、その名誉を著しく毀損された旨主張し、民法七二三条所定の名誉を回復するに適当な処分として、被告に対し、別紙一ないし三記載の謝罪状の交付を求める。

原告らの主張する名誉毀損行為の主体、その具体的行為及び右行為と名誉毀損の関係は、その主張自体から必ずしも明確とはいえないが、原告らは、要するに、戦犯者原告らは日本国がとった諸政策に従わざるを得ず、戦犯として責任を問われるような行為をしていない戦犯者原告らが、連合国軍の戦犯裁判により有罪とされたことは誤りであり、日本国の行為によって無実の罪につき有罪判決を受け、かつ、刑を受けさせられたことによって、名誉を毀損されたと主張するもののようである。そして、原告らの請求する右謝罪状の内容は、被告国において、戦犯者原告らが右のとおり有罪とされたことは誤りであること、右誤った有罪判決を受けたのは日本国の行為に起因するにもかかわらず、その後日本国が原告らに対しなんらの補償措置をとらないことは、原告らの名誉を侵害するものであることを認め、このことについて原告らに対し陳謝の意思を表明することをその骨子とするものである。

ところで、名誉を毀損されたと主張する被害者が加害者に対し、損害賠償を求めて提起した訴訟においては、名誉を毀損するものとして主張されている事実の真偽については、被害者が不実であることの立証責任を負うものではなく、刑法二三〇条ノ二の趣旨を参酌し、加害者が右事実の真実性を立証したときに、不法行為の要件が欠けることになる(最高裁昭和四一年六月二三日第一小法廷判決・民集二〇巻五号一一一八頁)。これに対し、民法七二三条において、名誉毀損の不法行為がなされた場合、特に名誉回復処分を命じることを規定している趣旨は、右処分により、加害者に対して制裁を加えたり、加害者に謝罪等をさせることにより、被害者に主観的な満足を与えたりすることにあるのではなく、金銭による損害賠償のみでは填補され得ない、毀損された被害者の人格的価値に対する社会的・客観的な評価自体を回復することを可能ならしめることにあり、そのため、名誉を毀損した加害者に対し、事実が真実に反すること及び陳謝の意思を強制力をもって言明させるなどの処分を命じることを認めているのであるから、名誉を毀損されたと主張する被害者が加害者に対し、同条所定の名誉を回復するに適当な処分として、事実が真実に反すること及び事実が不実であることを認識した上陳謝の意思を表明することを内容とする謝罪状交付により名誉回復措置を求める場合には、法が加害者(被告)に不実であること及びこれを前提に陳謝の意思言明を強制する以上、右措置を求める被害者(原告ら)において、右の事実が真実に反することにつき、これを立証する責任があるものと解するのが相当である。

本件において、原告文泰福、原告李鶴来、原告金完根、原告文済及び原告朴允商は、その目的はともかく俘虜に対し暴行を加えたこと自体を自認しているところである。原告らは、日本軍当局が敗戦直後に俘虜虐待の責任回避の命令〈証拠略〉及び通知〈証拠略〉を発し、日本軍の責任を戦犯者原告ら朝鮮人・台湾人の俘虜監視員に責任を押しつけようとした旨主張するが、戦犯者原告らに対する起訴の端緒となった俘虜虐待行為の容疑者の特定は、同原告らに対するいわゆる首実検等によりなされたことは前記認定のとおりであるから、右命令又は通知のみによっては、戦犯者原告らが無実の事実につき有罪判決を受けたとは認め難い。そして、他に原告らの弁明以外、事実が真実に反すること、すなわち、戦犯者原告らが起訴された事実につき無実であるのに、日本国の行為によって有罪判決を受けさせられ、その執行を受けさせられたことを認めるに足る的確な証拠は存在せず、その立証はない。

2  また、原告らは、被告は二の条理に基づく損失補償義務若しくは三の雇用契約上の債務不履行による損害賠償義務の履行を怠り、戦犯者原告らの名誉を毀損し続けている旨主張するが、被告に右義務があると認めることができないことは前示説示のとおりであるから、被告らが右義務を履行しないことにより原告の名誉を毀損しているということはできない。

3  したがって、原告らの右主張は採用することができない。

第二立法不作為違法確認請求(第二次的請求)について

一  原告らの右第二次的請求は、戦犯者原告らが被った刑死・長期拘禁による生命・身体の自由に関する損失について、被告が補償立法を制定しないことは違法であることの確認を求めるものである。

二  ところで、立法不作為の違法違憲確認の訴えがいかなる類型のものであるかということは議論のあるところであるが、原告らの第二次的請求は、戦犯者原告らの被った右損失について、国会が補償を行うか否かについて単に立法権限を行使しないという不作為の違法確認を求めるものではなく、国会が、右生命・身体の自由に関する損失を積極的に補償する内容の法律を制定しないことの違法確認を求めるものである。そうすると、国会の右立法の不作為を違法というためには、国会に当該内容の補償立法をなすべき作為義務があることを前提とするから、右訴訟は、実質において国会に右のような立法義務があり、その義務を怠ることの違法確認を求めるものにほかならない。

しかし、国会及びこれを構成する国会議員は、立法に関しては、原則として、国民全体に対する関係で政治的責任を負うにとどまり、個別の国民の権利に対応した関係での法的義務を負うものではなく、国会ないし国会議員の立法の不作為は、立法の内容が憲法の一義的な文言に違反しているにもかかわらず国会があえて当該立法を行わないというように、容易に想定し難いような例外的な場合でない限り、違法の評価を受けるものではない(最高裁昭和六〇年一一月二一日第一小法廷判決・民集三九巻七号一五一二頁、最高裁昭和六二年六月二六日第二小法廷判決・判例時報一二六二号一〇〇頁、最高裁平成七年一二月五日第三小法廷判決・判例時報一五六三号八一頁参照)。のみならず、裁判所が国会に対し、一定内容の法律を制定すべき義務を明示し、右義務の不履行を違法であると宣言することは、国権の最高機関かつ唯一の立法機関であり、全国民を代表する国会の立法裁量に対する過度の干渉となり、憲法上の原則である三権分立の制度を脅かすおそれが大きい。そして、確認の訴えにおける確認の利益は、判決をもって法律関係の存否を確定することが、その法律関係に関する法律上の紛争を直接的かつ抜本的に解決するため適切かつ必要である場合に認められるものであるが、制定すべき法律の内容が憲法上一義的に特定されない場合には、裁判所が判決をもって立法義務の不履行を違法である旨宣言したとしても、これにより立法府に対して実際に立法を義務づけることはできないのであるから、結局のところ、右判決はなんらかの立法をしないことが違法であるという裁判所の単なる意見表明としての効果しかもたないことになる。そうすると、その内容が憲法上一義的に特定されない立法については、立法不作為の違法確認判決による権利救済、すなわち、右立法の不存在による具体的な不利益状態の解消は到底期待することができないのであるから、右判決を求める訴えは、当事者間の紛争の直接的かつ抜本的な解決のため適切かつ必要とはいえず、確認の利益を欠くものと解すべきである。

三  本件において、原告らの第二次的請求は、「原告卞光洙の亡父卞鐘尹が、別紙四刑死者目録記載の執行日において銃殺刑を執行されたことにより被った損失並びにその余の戦犯者原告らが別紙五在監者目録記載の各逮捕日において逮捕され、各有罪判決を受け、各拘禁期間中拘束されたことにより被った各損失について、被告が補償立法を制定しないことは違法であることの確認」を求めるというものである。

しかし、戦犯者原告らが被った損失に対する補償立法の制定は、前記説示のとおり、わが国の国民感情、社会・経済・財政事情、国際環境及び他の戦争被害者に対する補償との均衡等の諸般の要素を勘案した極めて高度な政治的判断を要し、かつ、補償の対象、補償の額、補償方法、補償時期及び補償期間などを具体的に定めるについても、右要素を勘案した複雑な立法判断を要するものであるから、立法の内容が憲法の一義的な文言に違反しているにもかかわらず国会があえて当該立法を行わないというように、容易に想定し難いような例外的な場合に当たらないのみならず、仮に、国会が憲法上、前記戦犯者原告らが被った損失に対する何らかの補償立法をなすべき作為義務があることを措定したとしても、かかる補償立法の制定は、前記諸要素を勘案した複雑な立法判断を要するものであるから、裁判所が抽象的に右補償立法を制定しない不作為が違法である旨宣言したとしても、右補償立法の不存在により原告らが被っている不利益状態が直ちに解消されるものとは考え難く、右違法確認判決が、原告らと被告国との間の紛争を直接的かつ抜本的に解決するために適切かつ必要であるとはいえない。

したがって、原告らの第二次請求に係る訴えは、確認の利益を欠くものとして不適法というべきであり、却下を免れない。

第三結論

以上のとおり、原告らの請求の趣旨一1(二)の請求を除く請求は、いずれも理由がないからこれを棄却し、同一1(二)の請求に係る訴えは、いずれも不適法であるからこれを却下することとする。

よって、訴訟費用の負担につき、民訴法八九条、九三条一項本文を適用して、主文のとおり判決する。

(裁判官 長野益三 玉越義雄 名越聡子)

別紙一

謝罪状

一、日本国は、一九一〇年日韓併合条約を強制し韓国を植民地化したうえ、一九四二年貴殿を日本軍の軍属とし、南方地域において、日本国敗戦の一九四五年まで連合国軍の俘虜(抑留者を含む)の監視に当らせました。

二、そして、日本国は、貴殿に対し、日本国及びその軍隊の責に帰すべき右俘虜に対する食糧、医薬品の欠乏、強制労働の実施その他俘虜虐待を理由に、連合国軍によりBC級戦犯として死刑を宣告され、減刑後も長期にわたって刑務所に拘禁されることを余儀なくさせ、もって日本国が負うべき戦争責任を肩代りさせて肉体的、精神的に非常な苦痛を蒙らせ、かつ、貴殿の同胞から“日本の戦犯”として白眼視されるなど名誉を毀損される事態を惹起せしめました。

三、このような深刻な被害を与えた日本国は、謝罪及びこれに対する補償措置を直ちに講ずべきにもかかわらず、長期間にわたる貴殿らの補償要求を無視してこれを放置し、もって貴殿に対し多大の損害を与え名誉を著しく毀損しました。

四、右の日本国の罪責につき、私は貴殿に対し、ここに日本国を代表して心から謝罪いたします。

一九九 年 月 日

日本国代表者

内閣総理大臣(氏名)

殿

別紙二

謝罪状

一、日本国は、一九一〇年日韓併合条約を強制し韓国を植民地化したうえ、一九四二年貴殿を日本軍の軍属とし、南方地域において、日本国敗戦の一九四五年まで連合国軍の俘虜(抑留者を含む)の監視に当らせました。

二、そして、日本国は、貴殿に対し、日本国及びその軍隊の責に帰すべき右俘虜に対する食糧、医薬品の欠乏、強制労働の実施その他俘虜虐待を理由に、連合国軍によりBC級戦犯として懲役刑に処せられ、長期にわたって刑務所に拘禁されることを余儀なくさせ、もって日本国が負うべき戦争責任を肩代りさせて肉体的、精神的に非常な苦痛を蒙らせ、かつ、貴殿の同胞から“日本の戦犯”として白眼視されるなど名誉を毀損される事態を惹起せしめました。

三、このような深刻な被害を与えた日本国は、謝罪及びこれに対する補償措置を直ちに講ずべきにもかかわらず、長期間にわたる貴殿らの補償要求を無視してこれを放置し、もって貴殿に対し多大の損害を与え名誉を著しく毀損しました。

四、右の日本国の罪責につき、私は貴殿に対し、ここに日本国を代表して心から謝罪いたします。

一九九 年 月 日

日本国代表者

内閣総理大臣(氏名)

殿

別紙三

謝罪状

一、日本国は、一九一〇年日韓併合条約を強制し韓国を植民地化したうえ、一九四二年貴殿の御尊父卞鐘尹氏を日本軍の軍属とし、南方地域において、日本国敗戦の一九四五年まで連合国軍の俘虜(抑留者を含む)の監視に当らせました。

二、そして、日本国は、御尊父に対し、日本国及びその軍隊の責に帰すべき右俘虜に対する食糧、医薬品の欠乏、強制労働の実施その他俘虜虐待を理由に、連合国軍によりBC級戦犯として死刑に処せられることを余儀なくさせ、もって日本国が負うべき戦争責任を肩代りさせて肉体的、精神的に非常な苦痛を蒙らせ、貴殿に対しても、御尊父が銃殺刑となったうえ、“日本の戦犯”の子として韓国において白眼視され名誉を毀損されるなど精神的に非常な苦痛を蒙らせました。

三、このような深刻な被害を与えた日本国は、謝罪及びこれに対する補償措置を直ちに講ずべきにもかかわらず、長期間にわたる貴殿らの補償要求を無視してこれを放置し、もって貴殿に対し多大の損害を与え名誉を著しく毀損しました。

四、右の日本国の罪責につき、私は貴殿に対し、ここに日本国を代表して心から謝罪いたします。

一九九 年 月 日

日本国代表者

内閣総理大臣(氏名)

卞光洙 殿

別紙四

刑死者目録

氏名

執行日

卞鐘尹

一九四七年九月五日

別紙五

在監者目録

氏名

逮捕日

有罪判決

拘禁期間

文泰福

一九四五年九月二九日

懲役一〇年

二、三八四日

李鶴来

一九四五年九月二九日

懲役二〇年

四、〇二六日

尹東鉉

一九四六年四月一三日

懲役二〇年

三、五五六日

金完根

一九四五年一一月一一日

懲役一〇年

二、三〇八日

文済行

一九四六年二月一八日

懲役一〇年

一、九九八日

朴允商

一九四六年四月一三日

懲役一五年

二、八九七日

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